日本の建築・土木業界はなぜ、「職人」を制度的に消そうとしているのか?

建設業における「職人文化」──。それが静かに終わっていく。

ひとつひとつは穏当な改革として提示され、正当な理由を伴い、誰も悪者にならない形で実施されていく。それぞれを切り出してみれば、すべてが「合理的」だ。だが少し引いて眺めると、その全体像はひとつの方向を指し示している。

「職人」という存在様式を、日本の建築・土木産業の制度的インフラから段階的に除去すること ── そのプロジェクトが、2020年代の日本でひっそりと進行している。

これは「誰かが職人を消そうとしている」という陰謀論ではない。より精密で、より不気味なテーゼだ。個々の政策立案者も経営者も、善意と合理性をもって行動している。にもかかわらず、その総体が生み出す帰結は、千年以上かけて蓄積されてきた建設の身体知を制度的に解体することに向かっている。問うべきは「意図」ではなく「構造」だ。

ゼロから読む、崩壊の数値

まず、数字から入ろう。

建設業の就業者数は1997年の685万人をピークに減少が続き、2024年にはピーク時比69.6%にあたる477万人にまで縮小した。そのうち現場実務を担う建設技能者は、ピーク時(1997年、464万人)比65.3%の303万人にまで落ち込んでいる。年齢構成を見ると、過去20年で29歳以下の若年層が約88万人から約56万人に減少したのに対し、65歳以上は37万人台から80万人台へと倍以上に増加した。

この数字が告げているのは、単なる人手不足ではない。産業の世代的な空洞化だ。中核となる30代・40代の層も約238万人から約177万人へと大きく減少している。入口は細り、出口は拡大し、中間も失われつつある。建設業の人材ピラミッドは、頂点だけが重い奇形を呈している。

そして倒産。2025年上半期の建設業の倒産は986件発生し、前年同期(917件)を7.5%上回り4年連続で増加した。年上半期として過去10年で最多を更新し、このペースで推移した場合、通年で2013年以来12年ぶりに2000件台に到達する可能性もある。

注目すべきは倒産の質だ。職人などの「人手不足」を要因とした倒産は54件・5.5%を占めたほか、経営トップの後継者が決まらず事業が引き継げない「後継者難」を要因とした倒産は69件・7.0%と、いずれも2018年以降の上半期ベースで最多となった。職人が消えることで、企業そのものが消えている。

建設投資額は前年度比3.6%増の73兆6400億円と好調を維持しているにもかかわらず、倒産件数は増加している。需要はある。だが供給側の主役たる職人が、制度・高齢化・コスト構造のあらゆる側面から包囲されて消耗しつつある。この逆説が、現在の建設業の本質的矛盾だ。

起源を探る:なぜ職人はこうなったのか

職人の地位が現在の脆弱な状況に置かれた歴史的背景を理解しなければ、今日の制度改革の意味は見えてこない。

1992年のバブル崩壊以降、建設投資は急減した。当時の建設会社は生き残りに必死で、コストカットに邁進した。職人を直接雇用すると残業規制や社会保険の負担でコストがかさむが、外注すれば残業代や社会保険料のコストは減少する。

この発想により、職人を直接雇用しない、施工管理のみ元請会社が行う状況が生まれた。大手ゼネコンが職人を直接雇用せず外注する流れから、多重下請け構造が形成された。規模が大きな工事では4次・5次請けまで拡大することもあり、中間を経由するたびに利益が削られ、末端の職人へ届くカネは最薄となる。

中央建設業審議会では、職人の賃金が公共工事設計労務単価(公共工事積算上の職人単価)に見合っていないと指摘されており、末端の職人に相応の賃金が行き届いていない問題が浮き彫りになっている。

つまり構造的に、職人は長年にわたって「搾取される存在」として設計されてきた。その結果として若者が入職せず、高齢化が進み、技術継承が途絶える ── というのが、今日の危機の歴史的プロセスだ。今の制度改革は、この構造が生み出した結果に対応しようとしているが、構造そのものを設計したのは誰でもなく、市場の論理だった。

4つの制度的ベクトル:合理性が集積するとき

現在進行中の制度改革を個別に見れば、それぞれは合理的な目的を持っている。だが4つを合わせて眺めたとき、その総体が指し示す方向は一本の矢のように鮮明だ。

第1のベクトル:i-Construction 2.0 ── 職人の「マネジメント化」

i-Construction 2.0では、これまで人が手作業で実施してきた内容をAIやシステムを活用して自動化し、人はマネジメント業務に特化していくよう変革していく必要がある、とされている。

国が掲げる最終的な目標は、2040年度までに建設現場の省人化を3割進め、生産性を1.5倍に向上させること、そして「給与が良い・休暇が取れる・希望がもてる」という新3Kを実現することだ。

「新3K」という言葉は巧妙だ。旧来の3K(きつい・汚い・危険)を克服するために、職人の身体性そのものを現場から遠ざけようとしている。

センサーが地形を読み、AIが施工計画を生成し、オペレータは事務所から複数の建機を遠隔制御する。抜本的な省人化対策に取り組むためには、一人で複数台の機械を操作することや設計・施工の自動化など、これまで人が手作業で実施している内容をAIやシステムを活用して自動化し、人はマネジメント業務に特化していくよう変革していく必要がある。

その世界で必要とされるのは、土の手触りを知る職人ではなく、システムのインターフェースを操作できるテクニシャンだ。「省人化」という言葉は、現場から人の知恵と技を段階的に分離していく過程を、穏やかな産業政策の文脈に包み込んでいる。

第2のベクトル:CCUS ── 技能の「データ変換」

建設キャリアアップシステム(CCUS)は、表向きは職人の処遇改善を目的としている。就業履歴をICカードに蓄積し、技能をレベル1から4の四段階で可視化することで、経験ある職人が正当に評価される仕組みを作る ── という理念は美しい。だがその設計思想には、根本的な認識論的問題が潜んでいる。職人の技能とは本来、言語化・数値化できない「暗黙知」の集積だ。

左官職人が塗り壁の乾き具合を掌の感触で判断する経験、大工が木材の「癖」を見抜く眼力、溶接工が火花の色から温度を読む直感、宮大工が古材の劣化状況を触診で評価する身体知 ── こうした知はデータベースにやすやすと記録できるものではない。記録できたところで、それをいかに実行するかという別のハードルが立ちはだかる。

実際に、レベル2未満の一人親方を現場に入場させないとする元請企業も増えている。今後一人親方として働いていくうえでCCUS登録とレベル判定は必須になりつつある。

つまりCCUSのスコアを持たない職人は、たとえ卓越した技能を持っていても、制度的に「存在しない」扱いになる。システムに可視化されない技能は、市場から排除される。これは技能の「評価」ではなく、技能の「定義の書き換え」だ。誰が測れるか、誰が記録できるか ── その権力を持つ者が、「職人であること」の条件を決める時代が来ている。

第3のベクトル:インボイス制度 ── 一人親方の「法人化圧力」

2023年10月からのインボイス制度導入は、一人親方の減少を招く可能性があるとされている。

インボイス制度に対応するためには、課税事業者として登録し適格請求書を発行しなければならない。対応できない一人親方は、取引から排除されるか廃業を迫られる。建設業における一人親方とは、単なる「小さな会社」ではない。特定の元請・下請構造の外側で機動的に動ける、独立した技能者だ。季節や案件に応じて複数の現場を渡り歩き、特定の親方への従属を避けながら、自律的に技能を磨いてきた存在だ。

彼らこそが、制度の網の目をくぐって職人の自律性を維持してきた最後の砦だった。インボイス制度はその砦を、税務の論理から包囲している。「適正な課税」という誰も反論できない大義のもとで。

第4のベクトル:外国人材政策 ── 技術継承の「国際分散」

特定技能外国人は2024年には前年を大幅に上回って3.8万人を超えた。建設業の人手不足を補う即効薬として、外国人材の受け入れ拡大は産業政策の中核に据えられている。

だがここにも、深刻な矛盾が潜む。技能実習や特定技能の外国人は現場経験が浅かったり、日本の安全ルールに馴染んでいなかったりする場合があり、厚労省のデータでは建設業における外国人労働者の労災発生率が高いことが指摘されている。労働力としての数は補えるかもしれない。しかし数十年かけて積み上げられた建設の暗黙知は、3年や5年の在留期間では伝わらない。

さらに根本的な問いがある。技能継承は「誰に」継承されるべきか。外国人労働者に技術を継承し、彼らが本国に帰国した際にその技術を持ち去るとすれば、日本の建設技術という「公共財」が国境を越えて希薄化していく。育成就労制度が「技術移転」を名目に設計されていること自体、日本の産業技術の蓄積に対して複雑な含意を持つ。

「2024年問題」という引き金

これら4つのベクトルが2023年から2025年にかけて集中して展開されたのは、偶然ではない。建設業の「2024年問題」とは、時間外労働の上限規制適用によって発生するさまざまな経営課題や労務問題の総称であり、単なる労働時間の制限ではなく、業界全体のビジネスモデル変革を迫る構造的な転換点として位置づけられている。

この規制の本質的な問題は、技能労働者の多くが日給制で働いているため、労働時間の短縮は直接的な収入減少につながるという独特な課題にある。つまり「職人を守るための規制」が、職人の収入を直撃するという逆説が生じている。

働き方改革という「善意の規制」が、重層下請け構造の中で最も弱い立場に置かれている職人を最初に痛めつける。この構造的な不公正を温存したまま、制度だけが変わっていく。

第三次・担い手3法においても、ICT活用による生産性向上の施策が盛り込まれており、現場技術者の専任義務の合理化とICTを活用した現場管理の効率化が推進されている。法律のレイヤーでも、「ICTで補えるなら人はいらない」という論理が公式化されつつある。

宮大工という「警告灯」

この問題の深刻さを象徴する存在として、宮大工を見ておく価値がある。

宮大工は現在「絶滅危惧職種」と比喩できるほど減っており、残っているのは全国で100名ほどと推測される。一人前になれるまでに最低10年かかると言われており、その専門性の高さと全体的な高齢化が相まって、後継者が育たないままに引退してしまう宮大工が少なくない。

徒弟制度が許されなくなったという社会的な理由に加え、バブル崩壊による工務店衰弱が30年後の現在も続き、宮大工の育成が進まず若い世代が激減している。1400年も継承され続けた宮大工の技術が、継承の危機に瀕してこのままでは消えて無くなる。

宮大工が手がける木組みの技術 ── 釘や金具を一切使わず、木材同士を精密に組み合わせることで何百年もの耐久性を実現する継手・仕口 ── は、2020年にユネスコ無形文化遺産として登録されている。世界が認めた技術が、国内では制度的に再生産される環境を失いつつある。

この宮大工の危機は、建設職人全体が辿りつつある未来の先行指標だ。高度すぎる専門性は市場に価格づけられにくく、継承に長い時間を要する技能は効率性の論理に馴染まない。CCUSのレベル4カードは取れないかもしれない。インボイス対応もできないかもしれない。i-Constructionの遠隔施工とも無縁だ。制度の文法で書き直された「職人」像の中には、宮大工は最初から居場所がない。

批判的考察:何が失われ、誰が損をするのか

ここで立ち止まらなければならない。

現在進行中の制度改革を「やむを得ない産業転換」として肯定する論理は、表面的には強固に見える。人口が減り、現場は過酷で、若者は入ってこない、ならば自動化と制度整備で乗り切るしかない ── という主張に反論するのは難しい。しかし、その合理性が「捨象」しているものを直視しなければならない。

建設の質と文化的文脈の喪失

建設とは本来、土地の文脈に応答する行為だ。地盤の特性を経験知として蓄積した職人が、土地固有の条件に合わせて設計・施工を微調整する。その調整の積み重ねが、地域ごとの建設文化を形成してきた。i-Constructionが目指す「均質で標準化された施工」は、生産性の向上という意味では正当だ。だが地域固有の建設の文脈を、効率化の名の下に平準化する側面を持つ。

3Dデータに基づく施工計画は、現場の想定外の条件に対する職人的な即興を「誤差」として扱う。しかし日本の複雑な地形・地質・気候条件において、その「誤差への対応」こそが建設品質の核心だ。

災害対応能力の劣化

建設業の6割超が「大規模災害時の復旧対応は困難」と答えており、職人不足が社会インフラの回復力を直撃しているという調査結果がある。

能登半島地震の復旧が著しく遅れた要因のひとつに、地元に施工能力を持つ職人・事業者が絶対的に不足していたことが挙げられた。東京からゼネコンの大隊を派遣しても、地元の地形を知り、地域の建材と工法に精通した職人がいなければ、復旧の速度と質は根本的に制約される。

国自身も、オートメーション化を進めてもなお建設現場に人の介入は不可欠であり、働き方改革の推進が必須と認めている。だが、その「人」を育成・維持する制度的環境を、同時に解体しつつあるのが現在の政策の矛盾だ。

大企業と中小零細の「格差的改革」

i-Constructionも、CCUSも、インボイス制度も ── これらすべての制度への対応コストは、規模によって非対称に分配される。2025年上半期の建設業倒産のうち、人手不足を要因とした倒産は2018年以降の上半期ベースで最多となった。倒産している企業の圧倒的多数は小規模事業者であり、負債1000万円以上5000万円未満の小・零細規模の倒産が全体の約6割を占めた。

ICT建機を導入できる資金力があるのは大手ゼネコンだ。CCUSのシステム管理に専門部署を置けるのも大手だ。インボイス制度に対応する経理機能を整備できるのも大手だ。「改革」が「選別」として機能している。生き残るのは制度に適応できる規模の企業であり、消えていくのは職人の技能を直接的に担ってきた中小・零細の事業者だ。

労働者保護という名の労働者搾取

制度改革が「職人を守るため」を標榜しながら、職人を直撃するという逆説は繰り返し現れる。

建設業男性生産労働者の賃金は、依然として製造業男性生産労働者の賃金を下回っている。労務単価の引き上げは、公共工事の設計単価では14年連続で上昇しているが、民間工事への波及効果は依然として限定的であり、適切な賃金の確保には課題が残っている。

つまり「職人の処遇改善」という制度の旗印と、職人が実際に手にする賃金とのあいだには、重層下請け構造という暗渠がある。制度はその暗渠を通過する過程で稀薄化され、末端には届かない。

「外注化」という産業構造の病理

この問題の根を辿れば、ひとつの経営判断に行き着く。大手ゼネコンが職人を「直接雇用しない」という選択だ。

職人を直接雇うと残業規制や社会保険の負担でコストがかさむが、外注すれば残業代や社会保険料のコストは減少する。この発想により、元請の建設会社はまるで管理会社や商社のようになってしまった。

この外注化によって生まれた重層下請け構造は、30年かけて産業の骨格に組み込まれた。技能を持つ者ほど経営的に脆弱な立場に置かれるという、産業の根本的な倒錯 ── 「施工能力のある者ほど利益が薄い」 ── はここから来ている。

現在の制度改革は、この根本的な倒錯を是正しないまま、その帰結である人手不足・技術継承困難・職人離れに対処しようとしている。下請け構造の改善は「日建連が原則2次以内を目指す」という方針として示されているが、バブル崩壊以降30年かけて構築されてきた構造が、宣言ひとつで変わるほど市場は柔軟ではない。

定義権の移動という本質

最終的に、この問題の核心はひとつの問いに集約される。「職人であること」を定義する権力は、誰が持つべきか。

かつてその定義権は、現場にあった。師匠が弟子を認め、同業者が腕前を評価し、発注者が仕事の質を判断する ── そのような非公式だが実質的な評価のネットワークが「職人」という社会的カテゴリーを維持してきた。

今、その定義権が移動しつつある。CCUSのデータベースを設計するシステムエンジニア、i-Constructionの政策を立案する官僚、インボイス制度の適用範囲を決める税務当局 ── 彼らが「認識できる技能」だけが、制度的に存在する技能として扱われる。現場の土の感触を知らない者たちが、「現場で必要とされる技能」の定義を書いている。

1400年も継承され続けた宮大工の技術が、継承の危機に瀕しこのままでは消えて無くなる。この危機は、技術の難易度の問題ではない。技術を維持・再生産するための社会的・経済的・制度的インフラが、ゆっくりと解体されていることの問題だ。

結語:2040年の建設現場で、私たちは何を建てるのか

2040年、建設現場から「職人」という存在が制度的に定義し直された時代が来るとき、私たちは何を建てているのか。

おそらく構造物は建つ。AIが設計し、ドローンが測量し、ICT建機が施工し、遠隔オペレータが監視する。その意味での「建設」は続く。問題は、そこで失われるものの射程だ。

建設は本来、人間が環境に働きかけ、その土地の文脈と対話する行為だ。その対話の担い手として職人は存在してきた。彼らの技能は、数値化できないがゆえに市場に価格づけられにくく、継承に時間がかかるがゆえに効率性の論理に馴染まなかった。だからこそ制度の網の目から排除されやすく、危機において最初に消耗する。

制度改革が「職人を守る」と言いながら職人の生存基盤を侵食し、「産業を救う」と言いながら産業の本質的な技能を解体していく ── この逆説の中で、問われているのは「誰のための建設か」という問いだ。

コスト効率と生産性が最大化された建設産業の果てに、誰が幸せになるのか。発注者は安く速く建物を手に入れる。大手ゼネコンは利益率を維持する。テクノロジー企業は市場を獲得する。だが、能登の山奥の集落で崩れた石積みを一人で積み直す職人は、もういないかもしれない。

その喪失を「合理的な産業転換」と呼ぶことに、私たちは本当に同意できるのか。