「Civil Engineering(公共善のための工学、土木工学)」はなぜ、「Military Engineering(軍事工学)」と袂を分かったのか?

「エンジニア」という言葉の起源

1325年、「engine’er」という言葉が歴史に初めて登場したらしい。その意味は、「軍事機械を操作する者」。カタパルト、攻城塔、破城槌──戦争のための機械を設計し、運用する専門家たちを指す言葉だった。つまり、「エンジニアリング」という概念そのものが、軍事という文脈から生まれたのだ。

それから約450年後の18世紀半ば、イギリスの技術者ジョン・スミートンが自らを「Civil Engineer(シビル・エンジニア)」と名乗った。この瞬間、エンジニアリングは分岐点を迎える。戦争のための技術と、社会のための技術。破壊のための知と、建設のための知。この分離は単なる言葉の問題ではなく、近代社会の成立そのものに関わる、極めて本質的な転換だったのだ。

産業革命という触媒──専門職としてのエンジニアの誕生

18世紀後半、イギリスで産業革命が加速する。蒸気機関、紡績機械、鉄道──新しいテクノロジーが次々と登場し、社会構造そのものを変容させていった。この時代、技術的知識は職人ギルドの中で秘密裏に継承されるものから、体系化され共有される「専門知」へと変貌を遂げつつあった。

歴史家W・ウォーカー・ハンロンの研究によれば、1800年代初頭、エンジニアが発明者として特許に記載される割合はわずか10%だった。しかし1840年代にはその割合は倍増し、1860年代には3倍に達する。エンジニアたちは単に発明の数を増やしただけではない。彼らの特許は質が高く、より多くの共同発明者と協働し、より幅広い技術カテゴリーにまたがっていた。

ここで重要なのは、この「専門職化」の波が、軍事技術者とは異なる文脈で起こったということだ。産業革命が求めたのは、橋、運河、港湾、工場──つまり、平時の経済活動を支えるインフラストラクチャーだった。そして、この需要こそが「Civil Engineering」という新しいカテゴリーを必然的に生み出したのだ。

ジョン・スミートンの革命──「公共善のための工学」

1750年代、ジョン・スミートンという男がいた。弁護士の息子として生まれながら、法律の道を捨て、科学機器製作者となった彼は、1756年にエディストーン灯台の再建を任される。この灯台は、プリマス沖の危険な岩礁に立つもので、過去2回、嵐と火災によって失われていた。

スミートンの設計は革命的だった。花崗岩のブロックをアリ継ぎ状に組み合わせ、岩盤そのものと一体化させる構造。水中で硬化する「水硬性石灰」の開発。樫の木の幹から着想を得た、上に向かって細くなるフォルム。この灯台は123年間、荒波に耐え続けた。

しかし、スミートンの真の革命は技術そのものではなく、「自らをCivil Engineerと名乗った」ことにある。彼は意図的に、王立陸軍士官学校ウールウィッチで訓練を受ける軍事技術者たちと自分を区別した。そして1771年、Society of Civil Engineers(土木技術者協会)を創設する。この組織は、後に1818年に設立されるInstitution of Civil Engineersの前身となった。

スミートンの定義では、Civil Engineeringとは「公共善のための工事」だった。それは戦争のためではなく、社会のため。破壊のためではなく、建設のため。この概念的転換こそが、エンジニアリングを「職人技」から「科学的専門職」へと引き上げたのである。

分離の構造──なぜCivilとMilitaryは異なる道を歩んだのか

この分離には、いくつかの構造的要因が絡み合っている。

1. 知識の性質と拡散パターン

軍事工学は本質的に「秘匿性」を帯びる。要塞の設計、攻城兵器の仕様、戦場での通信技術──これらの知識は敵に知られてはならない。対照的に、Civil Engineeringは「公開性」を前提とする。橋の設計原理、運河の水力学、港湾の構造──これらの知識は共有され、改善され、標準化されることで社会全体に利益をもたらす。

18世紀後半から19世紀にかけて、技術専門誌が登場し、技術者たちの学会が設立された。この「知識の開放」は、産業革命の持続的成長に不可欠だった。しかし、それは軍事技術とは根本的に相容れないロジックだったのだ。

2. 訓練と教育の分岐

イギリスでは、軍事技術者は王立陸軍士官学校で訓練を受けた。一方、Civil Engineeringの教育は、1838年にキングス・カレッジ・ロンドンに土木・鉱業工学科が設立されるまで、徒弟制度や独学に依存していた。この教育システムの違いは、両分野の文化的DNA を決定づけた。

フランスやスペインでは、国家が主導する技術者養成機関(École des Ponts et Chaussées など)が強力な官僚制的エンジニア集団を生み出した。一方、イギリスでは、スミートンのような「自立した専門家」が市場で競争するモデルが発展した。しかし、いずれの場合も、軍事技術者とは異なる教育体系が、異なる専門職アイデンティティを育んだ。

3. 経済的インセンティブの転換

スミートンの経歴は象徴的だ。1750年代初頭、彼は科学機器製作で生計を立てていた。しかし1750年代末までに、「構造工学、河川・港湾工事の方が、科学機器製作よりも儲かる」ことが明白になった。産業革命は、Civil Engineeringに巨大な市場を創出したのである。

スミートンは生涯で100以上の橋、運河、港湾、水車、風車を設計し、200以上の技術報告書を作成した。これは軍事技術者のキャリアパスとは全く異なるものだった。平時における継続的な需要、クライアントとの長期的関係、技術的評判による市場価値の向上──これらは、Civil Engineeringを独立した専門職として確立させる経済的基盤となった。

4. プロジェクトの性質の違い

軍事工学のプロジェクトは、本質的に「非定常」だ。戦時には緊急の要塞建設、橋梁破壊、地形測量が求められるが、平時にはその需要は激減する。対照的に、Civil Engineeringのプロジェクトは「継続的」だ。都市の成長、交通インフラの拡大、産業施設の建設──これらは戦争の有無に関わらず、社会が機能し続ける限り必要とされる。

この違いは、両分野の専門家が持つスキルセットにも影響した。軍事技術者は戦術的柔軟性、迅速な意思決定、階層的組織での機能を重視する。Civil Engineersは技術的最適化、コスト効率、長期的耐久性、クライアントとの交渉を重視する。同じ「橋」を建設するにしても、その設計思想は根本的に異なる。

20世紀の複雑化──再収斂と新たな分岐

20世紀に入ると、状況はさらに複雑化する。第一次・第二次世界大戦では、軍事技術者が道路、橋梁、鉄道、港湾、飛行場を戦場で建設した。これらは本質的にCivil Engineeringの技術だが、軍事的文脈で展開された。

米国陸軍工兵隊(U.S. Army Corps of Engineers)の歴史は、この曖昧さを体現している。1802年に設立されたこの組織は、当初は軍事要塞の建設を担当していたが、1824年の General Survey Actにより、民間のインフラストラクチャー──道路、運河、河川改良──も担当するようになった。今日、工兵隊の職員の約97%は民間人であり、そのミッションの多くは環境保全、洪水制御、水路管理といったCivil works だ。

さらに、20世紀後半には新しい専門分野が登場する。機械工学、電気工学、化学工学、航空宇宙工学、コンピュータサイエンス──これらはCivilでもMilitaryでもない、第三の道を歩み始めた。現代の軍事技術は、むしろこれらの新しい分野に依存している。サイバーセキュリティ、無人航空機、ミサイル防衛システム──これらは19世紀的な意味での「Military Engineering」とは全く異なる知識体系を必要とする。

グローバル浸透のメカニズム──一個人の造語はいかにして世界標準となったのか

制度化という武器

1750年代、ジョン・スミートンが自らを「Civil Engineer」と名乗ったとき、それは単なる個人的な言葉遊びだった可能性もあった。しかし、この造語が世界中に浸透し、日本を含む非英語圏でも専門職の正式名称として定着したのは、いくつかの強力なメカニズムが作用した結果だ。

最初の、そして最も決定的なメカニズムは「制度化」だった。1771年、スミートンはSociety of Civil Engineers(土木技術者協会)を創設した。これは単なる社交クラブではなく、専門知識を蓄積し、標準を設定し、次世代を訓練する組織だった。そして1818年、より大規模なInstitution of Civil Engineers(ICE)がロンドンで設立される。

ICEは1828年に勅許を受け、Civil Engineeringを正式な「profession(専門職)」として法的に認知させることに成功した。これは極めて重要な転換点だった。それまで職人技の域にあった技術が、医師や法律家と同等の社会的地位を持つ専門職として公認されたのである。Thomas Telfordが初代会長に就任したことで、ICEは単なる利益団体ではなく、技術的権威の中心としての地位を確立した。

教育システムの標準化

制度化と並行して進んだのが、教育システムの標準化だった。フランスでは1747年にÉcole des Ponts et Chaussées(橋梁道路学校)が設立されていたが、これは王権による国家エンジニアの養成機関だった。一方、イギリスのICEは異なるアプローチを取った──民間主導の専門職教育モデルだ。

19世紀を通じて、この「Civil Engineering」という名称は教育カリキュラムの標準として機能した。1835年、アメリカのRensselaer Polytechnic Instituteが米国初のCivil Engineeringの学位を授与する。1838年にはKing’s College Londonが、1840年にはGlasgow大学が、Civil Engineeringの講座を開設した。

興味深いのは、各国がそれぞれ独自の教育システムを持ちながらも、「Civil Engineering」という名称だけは共通して採用したことだ。1870年には17校だったアメリカの工学教育機関は、1880年には85校、1890年には110校に急増する。この拡大の過程で、「Civil Engineering」は単なる翻訳語ではなく、グローバルな専門職カテゴリーとして定着していった。

専門職団体のネットワーク効果

ICEの成功は、世界中で模倣された。1852年、アメリカでAmerican Society of Civil Engineers(ASCE)が設立される。当初は12名のエンジニアがニューヨークのCroton Aqueductの事務所に集まっただけの小さな組織だったが、やがて全米、そして世界中に会員を持つ組織へと成長した。現在、ASCEは177カ国に15万人以上の会員を擁する。

19世紀半ばまでに、ヨーロッパ各国とアメリカにCivil Engineeringの専門職団体が設立された。そして20世紀には、ほぼすべての国が同様の組織を持つようになる。これらの組織は国際的なネットワークを形成し、技術標準、倫理規範、教育カリキュラムを共有した。

このネットワーク効果が重要なのは、技術移転のインフラとして機能したからだ。ある国のエンジニアが他国で働く際、「Civil Engineer」という肩書きは即座に理解され、専門性が認知された。これは、グローバル化する19世紀経済において、極めて実用的な価値を持った。

イギリス帝国とインフラ輸出

しかし、制度化と教育だけでは説明しきれない要素がある。それは、イギリス帝国の拡大と、それに伴うインフラストラクチャーの輸出だ。

19世紀、イギリスは世界最大の帝国を築き、植民地や影響下にある地域に鉄道、港湾、水道、電信網を建設した。これらのプロジェクトを担ったのは、ICE認定のCivil Engineersだった。彼らは技術だけでなく、専門職の概念そのものも輸出した。

インドでは、Royal Indian Engineering Collegeが1871年に設立され、イギリス式のCivil Engineering教育が導入された。同様のパターンが、オーストラリア、カナダ、南アフリカ、そして東南アジア各地で繰り返された。イギリスのCivil Engineeringモデルは、植民地主義と密接に結びついていた。

日本という特異点──能動的受容のケーススタディ

しかし、最も興味深いケースは、植民地化されなかった日本だろう。明治維新(1868年)後、日本政府は急速な近代化を国家目標に掲げた。そのための戦略的選択として、西洋の技術と制度を積極的に導入した。

1873年、工部省の下に工部大学校(Imperial College of Engineering)が設立される。その初代校長に招聘されたのが、グラスゴー大学を卒業したばかりの25歳のスコットランド人、Henry Dyerだった。

Dyerの任命は象徴的だった。彼はWilliam Rankine教授の推薦を受けており、Rankine自身がCivil Engineeringの体系化に貢献した人物だった。Dyerは日本への航海中の2ヶ月間でカリキュラムを設計し、6年制の教育プログラムを構築した。これはRoyal Indian Engineering Collegeのモデルを日本向けに改良したものだった。

工部大学校の教育は徹底的に実践的だった。学生たちは教室での理論学習と、赤羽工作分局での実地訓練を半年ごとに繰り返した。すべての授業は英語で行われ、卒業後7年間は政府での勤務が義務付けられた。学費は無料だった。

重要なのは、日本がこのシステムを単に模倣したのではなく、能動的に適応させたことだ。工部大学校の卒業生たちは、琵琶湖疏水(田辺朔郎)、東京駅(辰野金吾)、帝国大学旧図書館(曾禰達蔵)など、日本を代表するインフラプロジェクトを主導した。彼らは「Civil Engineer」というアイデンティティを持ちながらも、日本の文脈に適合させた独自の実践を展開したのである。

1886年、工部大学校は東京帝国大学の工科大学に統合される。そして19世紀末までに、「土木工学」という日本語訳が定着した。この訳語の選択も興味深い。「土」と「木」──大地と木材──という漢字は、伝統的な日本の建築材料を想起させながら、「工学」という近代的学問分野を示している。つまり、翻訳という行為そのものが、グローバルな概念とローカルな文脈の接合点だったのだ。

技術と言語の政治学

Civil Engineeringの世界的普及は、技術移転の物語であると同時に、言語の政治学でもある。なぜ各国は、自国語で完全に独自の名称を作らなかったのか?

一つの答えは、「互換性」の価値だ。19世紀後半から20世紀にかけて、技術者の国際的移動が増加した。イギリスのエンジニアがインドで鉄道を建設し、アメリカのエンジニアがパナマ運河を設計し、日本のエンジニアが満州で橋梁を建設した。この文脈で、「Civil Engineer」という共通言語は、資格と専門性を保証する国際的通貨として機能した。

もう一つの答えは、「権威の借用」だ。Civil Engineeringという名称は、単なる技術カテゴリーではなく、イギリス産業革命の成功、ICEの威信、そして近代性そのものを象徴していた。後発国がこの名称を採用することは、その権威を借用し、自国の技術者に国際的正統性を付与することを意味した。

実際、多くの国で「Civil Engineering」は音訳されるか、直訳されるかの二択だった。日本の「土木工学」、中国の「土木工程」、韓国の「토목공학」はいずれも同じ漢字文化圏の翻訳だが、音韻的にも意味的にも「Civil」の原義──市民的、非軍事的──を保持している。

ローカライゼーションの多様性

しかし、グローバルな浸透は決して一方的な均質化ではなかった。各国・各地域は、Civil Engineeringを独自の文脈に適応させた。

フランスでは、国家主導の伝統が強く、Ingénieur des Ponts et Chausséesという肩書きが今でも高い威信を持つ。ドイツでは、Bauingenieurwesen(建設工学)という名称が使われ、理論的厳密性が重視される。

インドでは、植民地時代のイギリスシステムが独立後も継続したが、急速な都市化という新しい文脈の中で、環境工学や交通工学といった新しい専門分野が発展した。

日本では、明治期の「富国強兵」政策の下で、Civil Engineeringは国家建設の中核を担った。戦後は、高度経済成長期のインフラ整備、そして近年では防災・減災という文脈で、独自の専門性を発展させている。

逆流する影響──周辺から中心へ

20世紀後半になると、興味深い逆流現象が起きる。かつて「受容者」だった国々が、今度は「発信者」になり始めたのだ。

日本の新幹線技術、シンガポールの都市計画、韓国の橋梁建設技術──これらは今や世界標準として、欧米諸国にも逆輸出されている。ASCEが2000年に選定した「20世紀の土木工学の偉業トップ10」には、大阪の関西国際空港が含まれている。

これは、Civil Engineeringという枠組みがグローバルな知識交換のプラットフォームとして機能していることを示している。スミートンの造語は、もはやイギリスのものではない。それは、世界中の技術者たちが共有する専門職アイデンティティの基盤となっている。

「公共善」という理念の現代的変容──継承と侵食のダイナミクス

グローバルな倫理規定の共通項

スミートンが定義したCivil Engineeringの核心──「公共善のための工事(works for the public good)」──は、現代に受け継がれているのだろうか?

この問いに対する答えは、「制度的には明確にイエス、実態的には部分的にノー」だ。

世界中のCivil Engineering専門職団体は、驚くほど一貫した倫理規定を持っている。アメリカ土木学会(ASCE)の倫理綱領は、技術者の第一の責任として「公衆の安全、健康、福祉を最優先すること(hold paramount the safety, health, and welfare of the public)」を掲げる。イギリス土木学会(ICE)は「公益──環境、人類の遺産、将来世代の健康──を最優先する義務」を規定している。

2013年、イギリスのエンジニアリング評議会は、UK-SPECにおいて「公共善の尊重(respect for life, law and the public good)」を明示的に倫理原則の一つとして定めた。

2025年現在、ABET(米国工学技術認定委員会)は、すべてのCivil Engineering教育プログラムに対し、卒業生が「エンジニアリング状況における倫理的・専門的責任を認識し、グローバル、経済、環境、社会的文脈における工学的解決策の影響を考慮した情報に基づく判断を行う能力」を持つことを求めている。

つまり、制度的には「公共善」という理念は、スミートンの時代よりもむしろ明確に、そして法的拘束力を伴って受け継がれている。Civil Engineeringは、単なる技術的専門職ではなく、本質的に倫理的な職業として定義され続けている。

日本における「公共」の複層性

ところが、日本の状況は他国と一線を画す。土木学会は1999年に「土木技術者の倫理規定」を制定し、その筆頭に次のように記している。

「土木技術者は、土木が有する社会および自然との深遠な関わりを認識し、品位と名誉を重んじ、技術の進歩ならびに知の深化および総合化に努め、国民および国家の安寧と繁栄、人類の福利とその持続的発展に、知徳をもって貢献する。」

そして第一の行動規範として「(社会への貢献)公衆の安寧および社会の発展を常に念頭におき、専門的知識および経験を活用して、総合的見地から公共的諸課題を解決し、社会に貢献する」と明記する。

これは、スミートンの「公共善のための工事」という定義を、ほぼ完璧に継承している。「公衆の安寧」「公共的諸課題」という言葉選びは、Civil Engineeringの原義である”civil”──市民社会の、非軍事的な──という意味を的確に反映している。

しかし、日本の文脈では、この「公共」という言葉が特殊な重層性を持つ。

明治期以降、「公共」は「官」とほぼ同義語として理解されてきた。「公共事業」は政府が発注し、税金で賄われ、「公益」は国家が定義するものだった。この文脈では、「公共善」は「国家の意思」と分かちがたく結びついていた。

戦後、特に1990年代以降、この理解は変容を迫られる。環境破壊、無駄な公共事業、談合スキャンダル──これらが「公共」という言葉そのものの信頼性を侵食していった。

信頼の危機──談合と「公共」の空洞化

1970年代から2000年代にかけて、日本の公共事業をめぐる一連のスキャンダルは、土木工学の社会的評価に深刻な打撃を与えた。

静岡事件(1981年)、埼玉土曜会事件、そして2000年の中尾栄一元建設大臣の収賄事件──これらは氷山の一角に過ぎなかった。江戸時代から続く談合の慣習は、近代的な公共調達制度の下でも温存され、むしろ「天の声」と呼ばれる官製談合として制度化されていた。

2005年、大手ゼネコン4社が「談合決別宣言」を発表し、翌年には日本土木工業協会も同様の宣言を行った。しかしこれは、土木業界の自浄作用というよりも、独占禁止法の罰則強化と公正取引委員会の厳しい取り締まりに追い込まれた結果だった。

土木学会自身も、この問題を深刻に受け止めた。2000年代初頭、雪印乳業の食中毒事件や三菱自動車のリコール隠しなどと並行して、技術者倫理の重要性が再認識される中、土木学会は倫理教育の強化に乗り出した。2004年には日本工学会技術倫理協議会が設立され、土木学会も事務局を担当した(2008-2009年)。

しかし、この倫理的覚醒は、痛ましい逆説を露呈した。「公共善のための工事」であるべきCivil Engineeringが、実際には「公共」を名目とした利益配分システムとして機能していたという現実である。

九州大学のある土木工学者は、1990年代から2000年代を「転換点」として振り返る。「戦後から半世紀あまり、自然環境に対して私たち『土木屋』はなにをしてきたのか、ということが厳しく問われるようになりました」。この問いは、環境破壊だけでなく、「公共」という概念そのものの再定義を迫るものだった。

制度から実践へ──倫理の内面化という課題

興味深い研究がある。アメリカの大学でCivil Engineering学生の倫理意識を追跡調査したところ、「公共福祉への関心は、4年間の教育を通じて減少する」という結果が出た。技術的専門性の習得が進むにつれて、非技術的側面──倫理、価値、社会的意味──が後景に退くという皮肉な現象だ。

これは、倫理規定の制度的整備と、その実践的内面化との間に大きなギャップがあることを示している。学生たちは倫理綱領を暗記できるかもしれないが、それを職業的アイデンティティの核として内面化しているわけではない。

日本でも類似の問題がある。土木学会の倫理規定は存在するし、大学のカリキュラムにも倫理教育は組み込まれている。しかし、実際の公共事業の現場では、「合意形成」「コスト削減」「工期遵守」といった実務的要請が優先され、「公共善」という抽象的理念は空気のように当たり前すぎて、意識されなくなる。

土木学会の「社会と土木の100年ビジョン」(2014年)は、この問題を直視している。「公共事業にまつわる談合や汚職などの不祥事の報道がなされるたびに、一瞬にして土木、公共事業に対して負のイメージが広がり、この努力(社会への理解促進活動)も水泡に帰してしまう」。

このビジョンは、「地方公共団体における倫理条例制定の提言」を行い、「健全な公共事業を推進するために」制度的対策を求めている。しかし同時に、それが防衛的な姿勢──「負のイメージ」を払拭すること──に重点を置いていることも明らかだ。

サステナビリティという新しい「公共善」

21世紀に入り、「公共善」の定義そのものが変容しつつある。

ASCEは2007年のビジョン声明で、Civil Engineersが「持続可能な未来を計画、設計、建設、保証する上での役割を持つ」ことを掲げた。イギリスのICEは、倫理原則に「環境、人類の遺産、将来世代の健康」を明示的に含めた。

日本でも、土木学会は「持続可能な社会の礎を築く」ことを100年ビジョンの核心に据えた。「市民のための工学の担い手として、人類の生存と営みおよび人類と自然の共生に貢献する」という表現は、スミートンの時代には想像もできなかった視野の広がりを示している。

この新しい「公共善」は、三つの次元を持つ。第一に、空間的には国境を越えたグローバルな公益。第二に、時間的には現世代だけでなく将来世代への責任。第三に、対象的には人間だけでなく生態系全体への配慮。

しかし、この拡大された「公共善」は、より実践が困難でもある。気候変動対策、生物多様性保全、社会的公正──これらはしばしば短期的な経済効率や政治的利益と対立する。さらに言えば、工学的アプローチによって達成できる目標なのかという疑問も残る。そして、Civil Engineersは、この対立の最前線に立たされる。

批判的検証の必要性──「公共善」は誰が定義するのか

より根本的な問いがある。「公共善」とは、そもそも誰が定義するのか?

スミートンの時代、「公共善」は比較的単純だった。灯台は船乗りの安全を守る。運河は物資を運ぶ。橋は人々を繋ぐ。これらは、ほぼ自明に「善」だった。

しかし現代の大規模プロジェクト──ダム、高速道路、空港、原子力発電所──は、必ずしも全員にとって「善」ではない。それらは、便益を受ける者と、コストを負担する者(環境破壊、強制移転、健康被害など)を生み出す。

2017年のグレンフェル・タワー火災は、イギリスのCivil Engineering界に衝撃を与えた。安全基準を満たしているはずの公営住宅で72名が死亡したこの事件は、「公共善」の名の下で行われたコスト削減が、実際には社会的弱者を犠牲にするメカニズムとして機能していたことを露呈した。

日本でも、2011年の東日本大震災と福島第一原発事故は、「安全神話」という名の「公共善」が、実際には批判的検証を欠いた技術決定主義だったことを明らかにした。

こうした事例は、「公共善」という理念それ自体が、権力関係、経済的利益、政治的決定の中で構築され、時には歪められることを示している。Civil Engineersが「公共善」に奉仕すると主張するだけでは不十分だ。彼らは、「誰にとっての善なのか」「誰の声が排除されているのか」を問い続けなければならない。

希望の萌芽──参加型デザインと市民工学

しかし、暗い話ばかりではない。

日本の土木教育は、明確に変化している。九州大学の土木工学科は、カリキュラムを「縦糸」(技術的専門性)と「横糸」(社会との関係性)に再構成した。「横糸」には「合意形成論」が含まれる──これは、かつての土木教育には存在しなかった科目だ。

「都市土木では、数え切れないほどの人との議論や調整、合意なくしては、何も前に進みません」という現場の声が、教育に反映され始めている。技術的最適解を一方的に提示するのではなく、多様なステークホルダーと対話し、価値の対立を調整するスキル──これが、21世紀のCivil Engineerに求められる能力として認識されつつある。

ASCEは、社会的公正(social equity)を倫理的義務として明示的に位置づけた。「Civil Engineersは、コミュニティを形成する多様な人々すべてに奉仕する責任がある。そして、自らの専門職がその多様性を反映しなければならない」。これは、「公共善」の定義そのものを、エリート技術者から市民へと民主化しようとする試みである。

土木学会も、「新しい公共」の概念を推進している。NPO、地域コミュニティ、ボランティアといった市民が、インフラの維持管理に参加する仕組みを制度化しようとする動きだ。これは、「公共善」を「官」が独占するのではなく、市民社会全体で担うという、ある意味でスミートンの原点への回帰でもある。

理念と現実の緊張関係

「公共善のための工事」という理念は、現代においても──いや、むしろ現代においてこそ──Civil Engineeringの中核に位置している。しかし、その継承は単純な受動的伝統ではなく、絶え間ない再解釈と批判的検証を伴うプロセスだ。

制度的には、倫理綱領、教育基準、法的規制を通じて、この理念はかつてないほど明確に定式化されている。しかし実践的には、経済的圧力、政治的利益、組織的慣性が、この理念を空洞化させる力として働き続けている。

日本の文脈では、この緊張はさらに複雑だ。「公共」という言葉が持つ「官」との結びつき、談合という歴史的慣習、そして3.11以降の技術への不信──これらが、「公共善」という理念の信頼性を揺るがしている。

しかし同時に、サステナビリティ、参加型デザイン、社会的公正といった新しい視点が、「公共善」の意味を拡張し、深化させている。Civil Engineeringは、単なる技術的問題解決ではなく、社会的価値の交渉と調整のプロセスとして再定義されつつある。

スミートンが1750年代に自らをCivil Engineerと名乗ったとき、彼が想定した「公共善」は、おそらく灯台や運河といった具体的な構造物だった。しかし250年後の今日、「公共善」は、気候正義、世代間衡平、参加型民主主義といった、より複雑で論争的な概念へと進化している。

この進化は、Civil Engineeringという専門職が、技術的熟練だけでなく、倫理的判断力、社会的想像力、そして批判的思考を要求されるようになったことを意味している。理念は受け継がれている。しかし、その実現は、かつてないほど困難であり、かつてないほど重要になっているのだ。

分離の意味──技術と社会の相互構成

Civil EngineeringとMilitary Engineeringの分離は、単なる専門職の分化ではない。それは、近代社会が「技術」をどう位置づけるかという、より深い問いに関わっている。

18世紀以前、「エンジニアリング」は主に戦争の文脈で理解されていた。技術は権力の道具であり、知識は支配のリソースだった。しかし産業革命は、技術を「社会の繁栄」と結びつける新しいナラティブを生み出した。スミートンの「公共善のための工学」という定義は、この転換を象徴している。

そしてこのナラティブは、19世紀を通じて世界中に広がった。Civil Engineeringという名称の普及は、単なる言葉の伝播ではなく、技術と社会の関係についての特定の理解──技術は公共の利益に奉仕すべきだという理念──の拡散でもあった。

興味深いのは、この分離が完全ではないことだ。軍事技術者は今でも平時に民間プロジェクトを手がけ、Civil Engineersは戦時に軍事施設を設計する。両者は異なる組織文化、訓練システム、専門職アイデンティティを持ちながら、共通の技術的基盤を共有している。

この曖昧さは、おそらく不可避だ。なぜなら、技術そのものが本質的に両義的だからだ。同じコンクリート技術が、橋と要塞の両方を建設する。同じ水力学の原理が、灌漑と防御堀の両方に応用される。技術は中立ではないが、その用途は文脈に依存する。

21世紀の今、私たちはデュアルユース技術──民生・軍事の両方に使える技術──の倫理的ジレンマに直面している。AI、ドローン、サイバー技術、バイオテクノロジー。これらの分野では、CivilとMilitaryの境界は再び曖昧になりつつある。

しかし同時に、Civil Engineeringのグローバルな浸透が示すのは、技術の意味は文脈によって作られるということだ。スミートンの造語が世界中で受け入れられたのは、それが単なる技術カテゴリーではなく、「技術は誰のものか」という問いへの一つの答え──市民社会のため、公共善のため──を体現していたからだ。

歴史は繰り返さないが、韻を踏む。18世紀の「エンジニア」たちが直面した問い──技術は誰のためのものか、知識はどう共有されるべきか、専門家の社会的責任とは何か──は、形を変えて私たちの前に再び現れている。

Civil EngineeringとMilitary Engineeringの分離の物語、そしてCivil Engineeringの世界的拡散の物語は、単なる過去の出来事ではない。それは、技術と社会がどう相互に構成し合うかという、現在進行形のプロセスなのである。そして、一個人の造語が世界標準になるまでの道のりは、グローバル化の本質──制度、教育、権力、そして意味の複雑な相互作用──を照らし出している。