皇居の森に佇む「吹上御苑」|日本の建築美学コードが刻まれた建築物

東京都心、皇居の奥深くに広がる25ヘクタールの森──吹上御苑。一般の目に触れることのないこの緑の聖域に、戦後日本の建築史を象徴する二つの御所が静かに佇んでいる。防空壕からの解放を意味した吹上御所(1961)と、象徴天皇の新たな姿を空間化した吹上新御所(1993)。木曽檜、秋田杉、青森ヒバ──全国から集められた最高級の銘木と、1400年の伝統を受け継ぐ宮大工の技。そして建築家・内井昭蔵が編み出した、光と風を操る雁行型レイアウト。二つの建築物が物語るのは、単なる住居の歴史ではない。それは、敗戦からバブル崩壊に至る激動の半世紀を、建築という言語で記述した日本の建築美学コードなのだ。

吹上御苑

風が吹き上げる聖域

吹上御苑──。その名は、かつて池沼に臨み「風が下より吹き上げる地勢」に由来するという。地名の語源には諸説あるが、この土地の記憶は16世紀まで遡る。

徳川家康が江戸入城する以前、この一帯は「局沢(つぼねさわ)」と呼ばれ、16の寺院が点在する庶民の遊山所だった。江戸城の造営とともに後苑へと転じ、江戸時代初期には徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)と親藩大名の邸宅が並んだ。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火を契機に、防火の観点から空地とされ、庭苑として整備される道を歩み始める。

花畑から薬園へ──吹上の変遷

3代将軍・徳川家光が花畑御殿の造苑に着手し、5代綱吉、6代家宣の時代に大幅に拡張された。特に造園を愛した家宣は、全国から珍石と銘木を集め、茶亭を建て、池沼を掘り、統轄職として吹上花畑奉行を新設した。華やかな庭園文化の頂点である。

しかし8代将軍・吉宗の代で様相は一変する。享保の改革の一環として華美を撤廃し、薬園を設置。遊覧のための庭園から、実用本位の空間へと転換した。この実学重視の精神は、後の時代にも引き継がれていく。

明治維新後、江戸城とともに吹上は朝廷に収められ、皇居の御苑となった。明治天皇は霜錦亭、寒香亭などの茶屋を設け、しばしば宴を催された。明治8年(1875)には、吹上庭園に一周738mの競馬場が設けられ、西洋の社交文化を取り入れた皇室の新たな姿を象徴した。

武蔵野への回帰

昭和初期、ゴルフを嗜まれていた昭和天皇陛下のため、1927年に4ホール、1932年には9ホールに拡張されたゴルフコースが造成された。しかし1939年、戦況の暗雲が立ち込める中、昭和天皇陛下はゴルフ場の使用を中止され、芝生の管理も停止。吹上は再び自然に委ねられることとなった。

戦後、昭和天皇陛下の御意向により、吹上御苑は「できるだけ手を入れずに自然のまま」管理される方針が確立する。かつての庭園は、武蔵野の原風景を残す生態系保護区へと変貌した。1996年からの国立科学博物館による生物調査では、動植物約5,000種の生息が確認されている。

吹上御苑の湿度は周辺の気象庁測定値より10〜20%高い。衛星観測データによれば、この森が作り出す高湿度の空気が大気を冷やし、銀座・日本橋にまで流れ込み、ヒートアイランド現象を抑制しているとされる。都心に存在する25ヘクタールの森、吹上御苑。この緑の聖域に佇む二つの御所は、20世紀後半の日本建築史における重要な転換点を象徴している。戦後復興期に建てられた吹上御所(1961)と、平成の幕開けとともに誕生した吹上新御所(1993)──この二つの建築物は、単なる住居としての機能を超え、時代のエートスを体現するアーキテクチャとして存在する。

吹上御所──防空壕から生まれた居住空間

1961年11月20日竣工。昭和天皇・香淳皇后の御住居として大林組が施工したこの建築は、戦後日本の特異な状況下で生まれた空間だ。

設計プロセスには両陛下からの直接的な御要望が反映され、工事期間中、昭和天皇陛下は21回も現場にお越しになられ、係員の労をおねぎらいになられた。これは建築が単なる構築物ではなく、人間的な営みの結晶であることを示している。竣工時、昭和天皇陛下は「よい住居ができてうれしく思います」とおことばを賜った──このおことばの背景には、16年間にわたる「御文庫」での御生活があった。

御文庫とは1941年、防空施設として建設されたコンクリート構造物だ。屋根には爆弾対策として厚いコンクリートと砂が詰められ、陛下の御生活空間はわずか4部屋、延べ40畳ほどしかなかった。建物の性質上、採光も換気も劣悪で、日常の御生活には適さない環境だった。それでも昭和天皇陛下は戦後も16年間、国家財政と国民の耐乏生活を御配慮あそばされて、この防空壕同然の空間にお住まいになり続けられた。

吹上御所への御移転(1961年12月8日)は、ある意味で戦争の終わりを象徴する出来事だった。昭和天皇陛下は「こんないい家に住めるのも、みんな国民のおかげだ」とお言葉を賜り、スリッパをお手に新御所へとお移りになられた。

吹上新御所──内井昭蔵が描いた「健康な建築」

1993年5月18日落成。建築家・内井昭蔵が設計したこの御所は、総建築費約56億円を投じた現代建築の傑作だ。

建築諸元

  • 着工:1991年10月22日
  • 竣工:1993年5月18日
  • 構造:地上2階、地下1階
  • 延床面積:約4,500㎡(約1,360坪)
  • 屋根:銅板葺き
  • 配置形式:雁行型

内井昭蔵(1933-2002)は、「健康な建築」を理念とする建築家だった。祖父・河村伊蔵は司祭であり建築家、父・内井進もニコライ堂のイコノスタス設計に関わった建築家という家系に生まれ、幼少期からロシア正教会の空間に触れていた。その経験が彼の建築観を形成した。

内井が設計した吹上新御所の最大の特徴は、「雁行型の平面構成」と「光への配慮」だ。彼自身の言葉を借りれば、「全体の印象は、明るさ、新鮮さを感じられるようにして、日本建築の精神と伝統を反映しながら、現代の生活空間の中の日本の美の独自性を求めた意匠としている」。

建材のサプライチェーン──全国から集められた最高の素材

御所建立において注目すべきは、その建材調達の徹底性だ。皇居新宮殿(1968年竣工)の記録によれば、「日本特産の銘木と裂地(きれじ)を用い、調度品も国産で、すべてが清楚な意匠とすぐれた工芸技術によって完成された」とされ、「建築資材のほとんどが国産のもの」という原則が貫かれた。

この伝統は吹上新御所の建設においても継承されたと考えられる。日本三大美林として知られる木曽檜(長野)、秋田杉(秋田)、青森ヒバ(青森)を筆頭に、吉野杉(奈良)、木頭杉(徳島)など、全国各地の銘木産地から最高品質の木材が選別された。

木曽檜は伊勢神宮の遷宮用材としても使用される最高級建材であり、平均樹齢280年の天然林から厳選される。法隆寺五重塔の心材に使われるなど、1300年を超える耐久性を実証している。秋田杉は年輪が細かく木目が美しいことで知られ、青森ヒバは樹齢200〜250年の天然林から採取され、抗菌性・防虫性に優れる。

これらの銘木は、かつて宮内庁が管轄していた御料林のネットワークを通じて調達されたと推察される。戦前の帝室林野局は全国の御料林を管理し、皇室建築のための木材を厳選してきた歴史がある。戦後はその機能が変化したものの、皇室建築における国産最高級材の使用という伝統は受け継がれた。

匠の技術──伝統建築を支える職人たち

建材と並んで重要なのが、それを扱う職人の技術だ。皇室建築には、日本の伝統建築技術の粋を集めた一流の職人が参画した。

特に宮大工は、神社仏閣の建築・修復を専門とする最高峰の技術者が集められた。釘や金物をほとんど使わず、「仕口」「継ぎ手」と呼ばれる木組み技法で建築物を組み上げる。この技術は飛鳥時代から1400年以上受け継がれ、法隆寺や薬師寺といった国宝建築を1000年以上支えてきた。

木組み工法の要諦は「木を読む」こと──木材一本一本の性質、年輪の向き、育った環境を見極め、建物にかかる力の方向に応じて最適な材を最適な位置に配する。この知識と技術は、10年以上の修行を経てようやく習得できる高度な専門性を要する。

内井昭蔵の建築には、こうした伝統的職人技術と現代建築技術の融合が見られる。せっ器質タイルの外装、銅板葺きの屋根、そして内部の造作には日本建築の伝統美を現代に翻訳する職人の手仕事が息づいている。山形緞通が手織りで製作した絨毯が新宮殿の各室に納入されたように、吹上新御所においても、全国から結集された職人の技が建築を完成させた。

ほとんどの部屋が庭や中庭に面する設計により、自然光が建物全体に行き渡る。また、昭和天皇陛下の御所がプライベート空間に特化していたのに対し、新御所は外国賓客を迎える接遇空間を併設している──これは新憲法下での象徴天皇としての要請を反映したものだ。

銅板葺きの屋根は吹上御苑の森林と調和し、せっ器質タイルを用いた外観は、日本の伝統美と現代性の融合を体現している。内井は同時期に一宮市博物館(1987)や高円宮邸(1992)も設計しており、皇室建築への深い理解を示していた。

空間の詩学──雁行型レイアウトが生み出す光と風の建築

吹上新御所の建築的本質は、その独特な空間構成にある。延床面積5,290㎡(約1,600坪)の建物は、機能別に三つの領域へと明確に分節されている。

空間構成の三層構造

  • 接遇部分: 630㎡(外国賓客の応接空間)
  • 私室部分: 970㎡(天皇御一家の居住空間)
  • 事務部分: 1,480㎡(側近・職員の執務空間)

雁行型配置の空間戦略

上空から俯瞰すると、建物は雁が列をなして飛ぶような階段状の配置を取る。この「雁行型」レイアウトは、単なる意匠的選択ではない──それは光と風、そして人の動線を最適化するための高度な空間戦略である。

中庭を囲むように「御車寄」「接遇部分」「私室部分」「事務部分」が配置され、ほとんどすべての部屋が庭または中庭に面している。これにより以下の建築的効果が生まれる。

全方位からの採光: 各部屋が異なる角度で庭に面することで、一日を通じて自然光が建物全体に行き渡る。朝の東からの光、午後の西日、それぞれが異なる部屋を照らし、時間とともに移ろう光の表情を空間に刻む。

自然換気の最適化: 雁行配置により建物に凹凸が生まれ、風の通り道が複数確保される。中庭が風を受け止め、各室へと導く。この自然換気システムは、機械に頼らない環境制御を可能にする。

視覚的奥行きの創出: 階段状にずれた配置は、空間に奥行きと広がりを与える。直線的な廊下では得られない、発見と驚きに満ちた動線体験を生む。

段階的プライバシー制御: 公的空間(接遇部分)から私的空間(私室部分)への移行が、雁行配置によって自然に緩衝される。建築そのものが、公私の境界を空間的に表現している。

中庭──光を集める装置

中庭は単なる庭園ではなく、建築の心臓部として機能する「光庭(ライトコート)」だ。四方を建物に囲まれた中庭は、太陽光を反射・拡散させ、隣接するすべての部屋へと光を届ける。

内井昭蔵が追求したのは、この「明るさ、新鮮さ」の建築的実現だった。御文庫の暗闇、旧吹上御所の限定的な採光──それらへの応答として、新御所は光に満たされた空間を創出した。中庭に面した大開口部は、外部と内部の境界を曖昧にし、森の緑と室内空間を視覚的に連続させる。

二階建て構造の機能配置

建物は地上2階、地下1階の鉄筋コンクリート造。2階には天皇陛下の「御身位に伴う部屋」として、三種の神器のうち天叢雲剣の形代と八尺瓊勾玉を保管する「剣璽の間」、および急な御公務のための「執務室」が配置されている。

この垂直方向の機能分離は、建築に階層性をもたらす。1階が日常生活と接遇の場であるのに対し、2階は皇位に付随する儀礼的・公的機能を担う。雁行型の水平展開と、機能別の垂直分離──この三次元的な空間構成が、新御所の複雑な建築言語を形成している。

地下には巨大な倉庫があり、各国からの贈り物や御一家の思い出の品々が保管されている。これは単なる収納空間ではなく、時間を蓄積する記憶装置として機能する。

御車寄から始まる空間シークエンス

御所への入口である「御車寄」は、空間体験の序章だ。玄関の床には鹿児島県沖永良部産の大理石が使用され、その質感が訪問者を迎える。

接遇部分には「小広間」「広間」「御進講室・応接室」「食堂」「皇族休所」など計11室が設けられ、それぞれが中庭や庭園に面している。私室部分には天皇御一家の食堂、寝室、居間、書斎、研究室、着替え室、理髪室、医療室、サンルーム、和室など17室があり、日常生活のあらゆる局面に対応する。

事務部分は32室を擁し、侍従、女官、侍医の部屋、調理室などが配置される。各棟は廊下で連結されているが、雁行配置により単調な直線廊下ではなく、角度を変えながら展開する動的な空間となっている。

この間取り構成が示すのは、建築が単なる「容れ物」ではなく、そこで営まれる生活と儀礼、公務と私生活を空間的に編成する「システム」であるということだ。内井昭蔵の設計は、天皇御一家の日常と、象徴天皇としての公的役割を、建築空間として統合することに成功している。

建築が語る天皇という存在のトランスフォーメーション

二つの御所を比較すると、そこには日本社会の根本的なトランスフォーメーション(変容)が刻まれている。

吹上御所(1961)は、戦争の記憶と経済復興期の慎ましさの中で生まれた。防空壕からの御解放という物理的移動は、精神的な戦後の終焉を意味した。しかしその建築言語は、依然として「御住居」としての機能に限定されていた。

吹上新御所(1993)は、平成という新時代の象徴として構想された。国際化が進む中、天皇陛下の御役割も変化しておられた。建築はそれに応答するように、接遇機能を組み込み、開かれた空間性を獲得した。

ここで注目すべきは、建築を成立させるサプライチェーンの全体性だ。全国の銘木産地から厳選された木材、伝統技術を受け継ぐ宮大工や職人、そして現代建築家の設計思想──これらすべてが統合されることで、初めて御所は完成する。

内井昭蔵の「健康な建築」という理念は、光と風、自然との調和を通じて、お住まいになられる方々の尊厳を回復させる試みだった。しかしその実現には、日本列島全体に広がる素材と技術のネットワークが不可欠だった。木曽の檜、秋田の杉、青森の檜葉──それぞれの土地で数百年をかけて育まれた木々が、職人の手によって建築へと昇華される。これは単なる建築工事ではなく、日本の自然と文化の結晶化プロセスなのだ。

雁行型の配置は、権威的な中心性を回避し、空間に流動性をもたらす。これは戦後民主主義と象徴天皇制が辿り着いた建築的解答とも言える。中庭を囲むように配置された各室は、外部と内部、公的領域と私的領域の境界を曖昧にし、新しい皇室のあり方を空間化している。

都心の森に溶ける建築

吹上御苑そのものが建築と共生するエコシステムを形成している。昭和天皇陛下の御意向により「できるだけ自然のまま」管理されてきたこの森は、約5,000種の動植物が生息する都市の生態系保護区となった。

内井昭蔵が追求した「環境と人々の暮らしとの調和」は、単に建物のデザインに留まらず、都市生態系全体へと拡張されている。吹上新御所の銅板屋根は経年変化により緑青を帯び、やがて森の色彩に溶け込んでいく。 建築とは、長い年月の中で変容し、環境と対話を続ける有機体だ──吹上御苑の二つの御所は、そのコードを今もなお密やかに保持し続けている。